【振り子の法則】リアリティトランサーフィン 第4章 ⑤
どうも、ナナシです。
あっという間に5月になってしまいました。早い。早すぎる。
リアリティトランサーフィン4章解説をそろそろ終わらせて、5章に進みたいのですが、4章が長いもので…もうしばし4章にお付き合い下さい。
第4章
願望
高い意義付けが自動的に依存関係を作り出し、その関係が強い過剰ポテンシャルを産み、平衡力による強い反作用を引き起こす。
通常、例えば次のような目標設定がなされる。
「もし私がこれを達成したら、 私の状況はずっとよくなるだろう」「もし私がこれを達成しなかったら、私の人生は何の意味もなくなってしまう」「もし私がこれをしたら、みんなに思い知らせてやることができる」。
このように様々なバリエーションが存在する。
今まで生きてきた中で、何度となく上記のような心情になったことか…そして今でもこのような気持ちになることはあります。プレッシャーを感じたりするのも、過剰な意味付けが行われているからなのかもしれません。
「全生涯のかかった一大事」には一生を棒に振る危険性が伴っている。
この場合に唯一やってよいことは、目的の意義を引き下げることである。
売店に新聞を買いに行くような気持ちで、目的に向かっていくのだ。
全ての物事を売店に新聞を買いに行くような気持ちで行えれば、物事が円滑に進む気がします。
振り子の影響だけでなく、過剰な意味付けによる緊張やプレッシャー、背負わなくて良い責任感を背負うことで、自らを窮地に追いやり、落ち着いてやればできることが焦ってできなくなってなってしまうことなどが私も良くありました。
振り子を手なずけるには、あなたがこの状況にアイロニーを持って対応すればよい。何の感情や関心を表さずに無視するということもできる。
また、あなたは選択肢を持っていて、それらの応用方法を知っているのだという意識が、あなたに平穏をもたらすことだろう。
さあ、これで何の意義を高めてしまったか、その結果、どういう問題を抱え込んだか、分析可能となった。もし状況がひどいものならば、そんな意義などには唾吐きかけて、依存関係を自ら払い落とし、ポジティブなエネルギーを根気強く放出するようにしよう。今が悪ければ悪いほど、その分良くなるのだから。
大敗を喫したと思ったら、そのように状況を評価してよい。
良いことがずっと続かないように、悪いこともずっと続くことはない。
ここの一節はなかなか、救われますね。常に状況は変わっていくし、自分が与えた意義によって自身を苦しめていたことに気づけば、不幸からの解放は早いのではないでしょうか。
罪悪感
「厚かましさは第二の幸せ」という言い習わしは、なぜ存在するのだろうか?通常、平衡力は良心の呵責に苦しんでいない人々に影響を与えたりはしない。その一方で、神はろくでなしたちを罰すればいいと思うし、正義が勝利しなくてはならず、悪は罰せられるべきと思う。
しかしながら、それがいかに痛ましくとも、自然にとって正義感というものは存在しない。逆に、生来の罪悪感を持つ真面目な人々には、常にありとあらゆる災厄が襲いかかるのに対し、良心のかけらもない恥知らずな悪党たちは、しばしば罰せられずに済むばかりか、成功までも手に入れることができる。
真面目で不器用な人に限ってタイミングが悪かったり、いい加減でちょっと性格悪いほうが上手くいってるなんてことはよくありますよね。
自分自身でいる、という本来自分が持つべき権利を取り戻し、被告席から立ち上がろう。もしあなたが罪を犯したと思わないならば、誰もあなたをあえて裁こうとはしないだろう。
あなたを裁く権利は誰も持っていない。あなたはあなたでいる権利を持っている。もし自分自身でいることを容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。
すると、驚くべきことが本当に起こる。誰もあなたを侮辱しようとしなくなる。たとえあなたがどこに居ようともである。
なぜなら、潜在意識から罪悪感を追い払ったためである。
これは、つまり今いる人生ライン上では罰を受けるシナリオは単に存在しないというただそれだけのことである。
自身が劣等感を抱く原因として罪悪感があるそうです。 他者との比較により、他者が自分よりも優位に立つことを容認し、ジャッジしているのは常に自分自身です。
そう考えると、自分と自分の関係こそ人間関係や様々な物事の全ての根源と言えるのかもしれません。
罪悪感があるならば、まず罪悪感があることに気づくこと、罪悪感を感じているならば、罪悪感を感じきってみること、それだけでも潜在意識の変化はあるように感じます。
なんだか、題目を変えて同じこと言ってるだけみたいな文章が続きますね。
まぁ、いかに過剰ポテンシャルを生み出さずに、振り子から自由になるかというのが主題なのでしょうがないのかもしれません。